海神島でうまれた「皆城総士」に思うこと

 

海神島でうまれたこどもを「皆城総士」と呼ぶことに、まだ整理がついていません。

EXODUSのBlu-ray BOXが届いてファフナーに再燃し、ずっと一期〜HAE後あたりまでをこねくりまわしてきたけれど、そろそろEXODUSに向かい合わなければならないのかもしれない。

BEYONDの総士くんのことに思いをはせる余裕こそ出てきたけれど、全く気持ちの整理がついてません。

便宜上「総士くん」とか呼んでるけど、全然彼が「総士くん」だという実感がない。(「こそうし」って呼び方めちゃかわだし分かりやすいし使いたいと思ってるけど恥ずかしくなる)

 

 

一期26話で乙姫が消滅し、生まれ変わったコアに対する千鶴先生の「本人が再生されるわけではない。それでは同じものをコピーすることになり、生命の本質から外れてしまう」という言葉がずっと胸にあるんですよね。

 

織姫が岩戸から出たあとも、彼女が「乙姫ではない」ということは何度も繰り返し繰り返し語られる。芹に対してわかりやすい執着を抱き、総士の妹ではなく姪。衣服を整え跪くのは、もう総士ではなく芹。その象徴たるものが「皆城織姫」という名前だと思うんです。

ミョルニアにしたってそうで、フェストゥムに同化されてしまった真壁紅音は、人間の頃と同じ容姿の、真壁紅音の意思を感じる存在がそこにいながらも「もういない」と表現され、史彦からは決して「紅音」とは呼ばれない。

 

誰もが言うことだけど、ファフナーにおいて「名前」って、ほんとうに、そのキャラクターの象徴だと思う。「真壁一騎」も「皆城総士」も「遠見真矢」もそう。それと同じだけ、そのキャラクターがどう名付けられるか、どう呼ばれるかには大きな意味がある。

総士ぶっきらぼう咎められても乙姫は兄と呼ばず「総士総士だよ」と言ったように。はじめてファフナーになった真矢が搭乗後ぐでんぐでんになりながら総士を「総士くん」と呼んだように。KANONCANONになったように。犬の名前にすら他ではいけない理由があるんですよ。

 

この前提が私の中にずっとあるので、一騎がEXODUS26話で隣の子どもを「総士」と呼んだとき、めちゃくちゃに混乱しました。BEYONDのPVを見て余計に受け入れられなかった。

総士くんに左目の傷はない。

総士くんは、私が14年間、その苦しみと成長を見てきた皆城総士ではない。

私の知っている皆城総士はもうどこにもいない。

でも総士くんは一騎から「総士」と呼ばれる。

わけがわからないし悲しい…。

 

いくつか納得できる感想や考察を見ました。

いわく、「皆城総士」という言葉にはふたつの意味合いがあって、ひとつが真壁一騎と同い年の、幼い頃に傷を負った、いなくなってしまった「皆城総士というたったひとりの人間」のパーソナルネーム。

もうひとつが、「フェストゥムにとっての抜くことのできない棘」「フェストゥムに痛みを与え続ける存在」として生まれ変わり永遠に存在し続けるものたち、「皆城総士」という概念。

 

めちゃくちゃわかった。わかりやすい。まったく整理のつかない混乱していた頭が「なるほどね」と思いました。

でもでもでもでも、後者の「皆城総士」たちにも個としての意識と人格と歴史があるわけで、それらをすべて「皆城総士」と呼ぶことには、私の感情が「なんでや!!!!!」って言ってるんですよね。

 

それってフェストゥムじゃない?

まあ総士は最初から最後までフェストゥムの象徴として扱われてきたけど〜〜!!!ここでその名前を象徴として扱うのもわかるけど!!

EXODUSの織姫のくだりでそれを否定してきたんじゃないの!?と思っちゃうんですよね。

織姫とは立場や状況が違うけど、同じ概念、象徴の中にも生きている以上は個があるわけで、最初の存在と同じ名を付けられることは、その命にとってプラスにならないんじゃないの!?だって別人じゃん!!

操も操で前の個体とはまったく別の存在でありながら「来主操」の名を冠していて、わかりやすく「変化したミールのコアの象徴」だけど、あれは自ら名乗ってることによってこっちの受け止め方がちょっと違うのかな。

 

そんな感じでモヤモヤしながらPV見てて、「ここにいると定められたのなら 僕はその運命に抗う」という言葉を見たとき、みんな大好き私も大好き一期16話の総士の「たとえ強いられた運命であっても、自らの意志で選びなおせと言うのか」という言葉が思い浮かびました。

あっ、この子ってやっぱり、私の知っている皆城総士では絶対ないんだなと思いました。

総士は、文字通り生まれたときから強いられた運命を、自らの意思で肯定的に受け入れ、自らの意思として行使してきた。

でも総士くんは違う。与えられた運命に明確に「抗う」って言ってくれた。

 

「ここにいると定められた」運命が具体的にどんなものなのかはまだ全然わかりません。

でもその運命が、「皆城総士という概念としてフェストゥムに痛みを与え続ける」運命のことだったらいいなあと思う。そんなふうに、個を与えられず、概念として名付けられ生きることは、かつて「島とコアのために生きる」という父の言葉で個を失いかけ、自分がどこにもいないと思ってしまった、あの皆城総士と同じになってしまう。

それを今度は、起こりうる前に否定する文脈で描いてほしいです。

だってファフナーのテーマって「存在と対話」だと思うから。個がなくちゃ対話だってできないから。

 

総士くんの個体としての存在を肯定するためには、きっと「痛み」と「傷」が必要なんじゃないかなと思います。傷はだれかがここにいることの象徴なので。どこにもいなくなれるフェストゥムが、マークザインに与えられた傷によって、他でもない皆城総士にここにいると定義されたことあったよね。

その傷を総士くんに与えるのが一騎でなくても構わない。(でも皆城総士に傷を与える存在は真壁一騎でしかないんだろうなあという気持ちもある…)

 

総士くんのことをPVで見たとき、「一騎と総士と操を足して割ったみたいなかんじだな」って思いました。総士くんにはぜひ「総士はそんなことしない」と言われるキャラクターであってほしい。そのひとつが「運命へ抗うこと」、「皆城総士」の根幹を揺るがすことだといいなと思います。

「BEYOND」ってそう思うとちょっと楽しみなワードだと思うんですよね、われわれの知る「皆城総士」を超えるキャラクターであってほしい。

 

あの子どもを「皆城総士」と名付けたことは、まだ作中で肯定も否定もされてない。そもそも私は完全に思い込んでるけど「皆城総士」と名付けたの一騎だよね?一騎以外居ない気もするけど一騎じゃなかったらごめん。

結局なんだかんだで、私は総士くんのこと「皆城総士」と名付けた人、たぶん一騎、を作中で否定してほしいのかもしれないな…。

誤解されたら嫌なんだけど私真壁一騎のことめちゃくちゃ好きですよ。でもめちゃくちゃ好きなりにEXODUSの一騎が全然理解できなくて、何考えてるかわからなくて怖かったんですよね。

 

prologueの歌詞を改めて聴いてて、「生まれしものに愛を導くための調べ 共に奏でるその日まで」「どうか君に伝えてほしい 今までのことを… 君が還るその日まで 閉ざしたままだから」あたりにわけわかんないなりにぐっときました。

「生まれしもの」は総士くんで、「共に奏でるその日まで」は総士くんの成長を待ちわびている一騎かなとか。

「君」っていうのも総士くんかなとか。閉ざしたままなのは何?誰?一騎?どうせ一騎でしょ?とか。

すごいありえない乱暴なオタクの解釈いいですか?「君が還るその日まで閉ざしたままだから」の「君」はかけがえのない最初の皆城総士であって、その総士と再会できる日まで一騎はどこか心の扉をひとつ閉ざして絶対に開けないとか。

まあ総士はいなくなってしまって二度と戻ってくることはないので「還る」という動詞は使われないでしょうけどね!!!!心の傷を抉って予防線を張らなければ

「無の欠片も『再びの』学びを得るまでは」もめちゃくちゃぐっとくる。

「無の欠片」ってフェストゥムのことだと思うけど、そのフェストゥムがなにかを学ぶことを「再び」って歌ってくれてほんとうにうれしい。乙姫や総士のたくさんの苦しみによって与えられたものを、大切なものをとてつもなく全力で肯定してくれている気になる。

 

改めてbeyondって単語で検索かけたら「来世」って訳が出てきてさ〜〜〜〜〜

まあね。まだぜんぜんPVしか出てないわけで、総士くんの抗う運命がどんなものかはわからないけどね。

「終わらない花が咲く楽園」=PVで総士くんが平和に暮らしている島=フェストゥムに作られた偽りの島で、「そこにいる」と定められた総士くんが偽りに気づいて抗うのかも。そういう皆城総士文脈に完璧に則ったキャラクターかもしれないしね。

後半でニヒトが映っているあたりが海神島だとすると、総士くんはひとまず無事海神島に帰ることができるので、海神島に帰ってから海神島の人間たちに「皆城総士としてここにいること」を定められて、抗うのか。

正直私はちょっと後者であってほしいというか、そういうファフナーを見てみたいと思うんですよね、これは完全にこどもにひどい運命を一方的に強いて選ばせないでくれという圧倒的私情なんですけど。

総士は、フェストゥムに通じるキャラクター、彼らに近しいものとして描かれ、総士自身もフェストゥムに対して敵意以外のいろいろな感情を持っていただろうけど、そのわりに総士はなにより人間だった、人間であることに強い意味があったと思うので、あえて総士くんにはもっとフェストゥム側に意識のうえで寄って行ってみてほしいなとか。

私たちの知る「皆城総士」では絶対にないことを知らしめてほしい。

 

ちょっと整理がついてきた。

これからなにが起こるかぜんぜんわかってないので、あとでBEYOND見てからめちゃくちゃ恥ずかしくなってるかもしれません。なんちゅー的外れなこと書いとんねんって無理になって消すかも。

でも、どんな展開も受け入れる覚悟は…できてないけど、そのときになったら受け入れようとするだろうな、と思える程度の「蒼穹のファフナー」という作品への、信頼感は、あるなって思いました。

 

※2/27 おすすめしていただいた「僕の地球を守って」を履修しました。それ以外にもいろいろ考えててかなり総士くんの存在とその名を受容できるようになってきました。

総士くんの中に総士を見てしまうことは悪いことでもだめなことでもぜんぜんなくて、総士くんだってきっと総士の言葉を聞いたとき、運命と出会ったとき、同じままではいられない。変わる部分や不可逆な部分は絶対にある、だけどその「運命」すら新しい皆城総士としての一部だから、それをあまりに否定するのも、たぶん物語の受け入れ方として100パーセント正しい態度ではない。(感情的にそうなってしまうのはわかる)

総士と違っていてほしい」と強く祈るのは、それも悪いことではないけれど総士くんではなく総士のことだけを見ている視線につながってしまいそうで怖い。大切なのは新しい総士くんが、知って、変わって、学んで、その結果なにを望むのかを受け止めること。やっぱり「みずから選ぶひと」が皆城総士だし、彼が選ぶのは同じ道なのかもしれないって、ふっと思いました。

「ほんとうの故郷」も「いるべき場所」も「そんな世界を捨てて生きよう、総士」も、ぜんぶ、それは総士くんが選ぶもの。総士くんだけが選べるもの。たとえ強いられたものでも、信じるよりよい未来と「可能性」のために、みずからの意思で苦痛の運命を選んだ総士だから。

総士くんは、たしかに皆城総士であって、総士じゃない。そういうのが、うまく文章でまとめられないままですが、とても感覚的に納得がいった気持ちでいます。

総士くんが何を知り、提示されたものたちからなにを選び、あるいは新しい選択を提示して、どう世界を祝福するのか、すごく楽しみだなあと改めて思いました。

やっと他の人のところへ追いつけた気がする。