蒼穹のファフナーにおいて「なぜファフナーに乗るたびに痛い描写が入るのか」問題

 

先日、「なぜファフナーに乗るたびに痛そうなアレがバチーンとくるのか」という話になったとき、言いたいことはあるもののまとめられずにしどろもどろになってしまったのが悔しくて、自分なりの解釈をずっとまとめていました。

やっと形になってきた気がするので、ここでこそっと公開してみます。

なおこれは完全に私の感想であって、考察とかではぜんぜんないです。

 

 

ファフナーになるたびに痛みがつきまとうのには意味があるんですよ。

ファフナーになるってことは、「違う自分になる」ってことなんです。ファフナーは体感操縦式有人兵器です。自動車や飛行機のように操縦するのではなく、「自分が目を開けばファフナーの目も開く」し、「自分が走り出せばファフナーも走り出す」んです。

同時に、それはファフナーのとてつもない巨大さや、設計上人間とは違う場所についている目、曲がらないはずの方へ曲がる関節、などの要素も「自分のもの」として受け取ることになります。巨大な、人間とは違う骨格の、前を向いたまま頭の後ろがぐるりと視界に入ってくるような仕掛けの目を持つ、兵器に自分がなるんです。それを受け入れるということです。

精神面でも「違う自分」に成らざるを得ません。フェストゥムには読心能力があるので、それを防ぐため、ファフナーになると「変性意識」という普段の自分とは違う性格が表に出てきます。大抵攻撃的になります。

あとこれは小説版の設定ですが、やさしい人がまったく感情の揺らぎのない冷酷な戦士になったり、きらきら光って綺麗な敵を自分の手で潰すことに快感を覚えたり、詳しくは省略しますが戦うために無駄な人間らしい感情を排除した、戦争にぴったりの脳みそにしてくれる兵器です。

そういう風に、ファフナーになるには自己否定を求められるので、大抵のパイロットはそれらをなかなか受け入れられず、うまくファフナーで戦えず、苦しみながら戦うことになります。それって「ここにいる自分」を確固として持っているからだと思うんですね。違う自分になるってことは、自分がひとつの「個」であることを自覚することだと思うんです。

作中でぶっちぎり最強のファフナーパイロットである一騎は、その強さの理由として「積極的な自己否定」が挙げられています。自分なんかいなくなってしまえばいい、だから自分がまったく違う自分になることなんか些細な問題だ、という思考です。

でもそれも、「自分がいなくなってしまえばいい」と思うためには、まず自分が「ひとつの個としてここにいる」ことを肯定する必要がある。

 

蒼穹のファフナーのいくつかのテーマのうち、わかりやすいのは「存在すること」「対話すること」だと私は思ってるんですけど、対話するには、それぞれの異なる存在がいなきゃいけないですよね。

ファフナーにおける「敵」であるフェストゥムは、みんなひとつになろーよって地球にやってくるわけです。フェストゥムに個の概念はなく、群体であり、自らのことを「我々」と称します。

そして、個の集まりである人間のことがまったくわからないから、人間のことを理解しようと聞くわけです。「あなたはそこにいますか」って。肯定するなら同化(ひとつになる=フェストゥムにとっては「みんなをひとつ上の段階に進化させること(祝福)」なので100パーセントの善意)、否定するなら攻撃をっていうのがフェストゥムの最初の行動原理だったと思います。

 

ファフナーは人間賛歌アニメなので、人間として「ここにいること」「対話をすること」は作中絶対的に肯定されます。(そのひとつの答えとして、「敵」であったはずのフェストゥムとも対話をしようとするのが私がファフナーを好きな理由のひとつです)

「痛い」っていうのは「自分」がここにいないと感じないことで、なにより「ここにいること」の証明なので、ファフナーにおいては「痛み」は「祝福」です。そして人間であることの象徴でもあります。フェストゥムは「痛くない」し「どこにもいない」し「誰もいない」から「対話しない」。一期の時点では。

 

「自分がひとつの個としてここにあること」には、ファフナーにおいては「痛み」と「傷」が必ずつきまとうんですよ。

なにせ、ほとんどフェストゥムみたいな存在として生み出され、「自分がどこにもいない」「どこにもいないなら大切な人とひとつになりたい」と思っていたところに「痛み」と「傷」を与えられて自我を確立し、その後もずっと誰かの痛みを強い意志を持って共有しつづけて、ついには、痛くなかったどこにもいなかったフェストゥムに、自らが知った「痛み」「ここにいること」を教えるに至った強くてやさしいなにより人間らしいキャラクターがいるので…。

 

ていうことをあのアニメは描いてると思うんですけど、それを第1話から、そんなテーマ視聴者はぜんぜん知りもしないときから、ずっと繰り返し「パイロットたちが人間として痛みを伴いながらもここにいること」を描いてるんですよね。

あと「自己否定」しなきゃ戦えないファフナーになるにあたって、「自分がここにいる」ことを忘れないために痛みを与えているのかな…ともちょっと思いました。

 

というのがあくまでも私の解釈でした。

わかんないよね。でもファフナーってこういうことを、物語的なテキストどころか、それ最低限言っといた方がよくない!?て設定すらなんの説明もないまま話が進んで視聴者が混乱するアニメなんですよね(そして視聴者は勝手に読み取り出す)。私は好きです。

あと、ファフナーが受けた破損をパイロットは自らの痛みとして感じるので、痛い描写はずっと最後まで続きますが、ファフナーと接続する際のあのバチーン(一騎曰く「電気椅子」)はそのうち描写されなくなります。

 

なおこれはまったくなんの資料も参照せずに書きました。

ファフナーにおいて資料を参照せずに設定を語ることはかなり危ない橋なので、あとで恥ずかしくなったらこそっと訂正するかなんかしておきます。

その解釈変じゃね?と思ったファフナー上級者の方はそっとスルーをお願いします。(もしくはこっそり内緒でおしえてね)