シン・エヴァンゲリオン劇場版(ネタばれあります)
シンエバー見ました。
チケットを予約するあたりから劇場に入るまで、気分の大半を占めるのが「ネタバレを踏んで後悔したくないという気持ちのみで見に来てしまった」だったので若干腰が重かったのだけれど(それだけべつにシンエヴァに期待をしていなかったというか)まあはじめてエヴァを見てから人生の大半知っている作品だし終わりはちゃんと見るか、と思っていて。
でも劇場で見てよかった。
単純にアニメーションとしての出来がめちゃくちゃにいいからそれだけでも見る価値あり、+こんなにきちんと終劇させるとは思わなかったなあ~という満足感です。
「エヴァンゲリオン」を終わらせるためには、もちろんこのやり方しかなかったという気もする。それでいてまーこうなるやろという期待値をいい意味で越えてきてくれた感じがします。
中盤はじまる怒涛の説明タイムにえっこんなにいろいろ説明してくれるのエヴァじゃないみたいだ!と思っていたんだけど(エヴァ=明かされないそこにある秘密を考察して楽しむ概念と考えつつあったので)後半のシンジとゲンドウの対話フェーズでいやこれはまごうことなくエヴァだな…と納得させられてしまった。
基本的にはテレビ版~旧劇場版を踏襲していて、根本にあるメッセージも同じ。
ただ、「だれかと生きていくのはおそろしいけれど、それでもだれかと生きていたい」ということ。
シンエヴァが優れていたのは、旧劇では最後の最後まで「だれかと生きていくのはおそろしい」で断絶してしまっていた人と人のあいだの交感、すなわちシンジ⇔ミサト、レイ、アスカ、etc…をすべて「それでもだれかと生きていたい」まできちんと描き切ったところ。
テレビ版最終話を、具体性のあるエピソードとコミュニケーションをもって二時間半やっていたという印象。非常に光のパワーにあふれた現代らしい帰結だと思う。というか旧劇的な未熟・未完・断絶・薄暗さ…といった90~00年代のマイナー的・カウンターカルチャー的な表現はもはや現代社会に適さないというか、いまの社会はそれに耐えきれないレベルになってしまっているのかな…。
後半のモノローグが旧劇のシンジと対になるゲンドウになりつつも、子⇔親ではなく、子⇔親になれなかったこども、の対比であるのは非常にイマっぽいな~と思った。みんなからだだけおとなになってしまったこどもだからね…。
シンジだけではなくレイ、アスカ、(またカヲルも)はテレビ版のもとより保護者の親愛がなによりも必要な子どもだったので、それぞれに第三村(ヒカリ)、ケンスケ、加持の親的愛が与えられたハッピーエンドだなという印象が強い。
父親と決別したシンジを迎えるのが制服姿=同世代のマリであり、親を殺して、親の保護下を離れて声変わりを経たシンジが親ではないマリと連れ立って生きていくというのはかなりきれいな終わり。
全体を通して、最後の最後でゲンドウ=旧劇から見守ってきたファン=親にはなりきれない人たちの目線に立って、その恐怖・孤独・生きづらさを描いて受け入れつつ、それでもその感情を無条件に肯定はしない、というスタンスに好感を持った(あたりまえだけどね…)
あとは、新劇からエヴァを知った10代前後の人にとってもいいメッセージが込められていた作品じゃないかな、と思います。「人と生きることはおそろしい、だけどだれかと生きていこうよ」なんてあまりにも普遍的で、あたりまえの、「正しい」メッセージだけど、いつだってそれは必要な言葉だと思うので。
いちばん印象的だったのは最後の出撃前のアスカとシンジのやりとり、「なんであたしがあんたを殴りたかったのかわかった?」「僕がなにも決めなかったから、アスカを殺すのも、救うのも、責任から逃げたから」(ニュアンス)
「自分の行為が引き起こした結果から逃げない」「結果が生じることをおそれてなにもせずにただ現状に流されることへの批判」というところがいいと思った。
ただし、これはかなり腑分けをしないとちょうどいまあやういところにある自己責任論とかぶってしまうのでむずかしいな~~と思いました、自分で自分の責任をとれる分野と、個人の問題ではない分野があるので。
当然結果が生じることそのものを恐れてなにもせずに甘える、というのは子どもの行為なので、シンジがそのフェーズを超えて成長したという目に見える結果なんだけども
あとね~~~マリアスね~~~マリアスよかったですね!!!ミサトさんとリツコさんの百合もよかった ありがとう
戦闘シーンは冒頭のパリのシーンがいちばん好きかもしれん 八号機とマリがかっこいいので…無骨で…
でも新劇でいちばんおもろいのはやっぱ破だよ
絵がいいのはQ
渚カヲルが傾国なのもQ
漫画版は渚が死んだあたりから読んでないんだけど、ちょっと読んでもいいかな~と思いました。(