冲方さんのブログについて

towubukata.blogspot.com

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まず文章を読んでしんど……となり、これに対する「無理」の気持ちをツイッターで表明したところなんかいろんなツールから匿名で同人やめろっていやがらせされたりしてしょうもない悪意しんど……………ってなってたんですがちゃんと自分が思ったことについて流れないかたちで書かなきゃと思ったので書きます。

これは深く自覚していることですが、私には論理的な思考と理性がいちじるしく欠けていて、これらの文章の問題点などを説得力を持って批判するということはおそらくできないので(そしてそれはもうかなりしっかり批判してくださった方々がいらっしゃるので)、この文章は単なる感情の吐露です。冲方さんが冷笑している、軽視している、個人の感情に振り回されている人間の日記です。なにも期待しないでください。ただこう感じた人間がいるというだけの文章です。(予防線がすごい)

 

冲方さんがなにを言いたいのか、たぶんわかってます。私がうだうだとしんどく思っているところそれ自体が論点なのではないということも理解してるつもりです。だけど、だからこそ、冲方さんが言いたかったことのために、「実際に被害者がいる性暴力」に関するものごとを露悪的な言い方で利用されたことに落胆している。

「言葉による誘導装置」、ある視点から見れば、あの少女像はそういったものかもしれない。けれど実際に戦時下性暴力による被害者がいたこと、彼女たちが勇気をもって声を上げはじめたということ、少女像が彼女たちに寄り添うために、そして記憶にとどめるために作られ、今後また同じようなことがくりかえされないようにという祈りが込められていること、も事実ではありませんか。(それは違う、と言われてしまったら、もうどうしたって平行線になっちゃうけどさ…)

冲方さんが伝えたい結論のためには、その一面は不要だったから、切り捨てられたのだと私には思えます。意図的に感情を刺激するため作られたものごとに、反射的に反応して分断されてはならない。それはそうかもしれない。そうやって「冷静に」「賢く」できる人はそうすればいい。

だけど、ひとごとじゃないんですよ。

感受性豊かすぎない?って呆れられるかもしれない。でも、私はどうしたって「冷静」にはなれない。冲方さんが切り捨てた一面に強く共感しているから、あれはそうではなくてコマーシャルですと言われてもそうですかとは納得できない。

いつかありえたかもしれない、これからありえるかもしれない「私」なんです。そうでなくても被害者は存在したし、いまも存在するんです。「重要な結論のために切り捨ててもよい」と冲方さんが判断した一面には、私が、だれかがいるんです。

そのことに思い至らなかったのか。思い至ってなお、切り捨ててしまえたのか。前者ならまだよかった。致命的に想像力に欠けているというだけだから。ふたつめの記事によって、ああ冲方さんはわかってて切り捨てたんだなあと感じました。だから余計に落胆した。冲方さんはわかってて、意識して私たちの被害や傷を「些末なこと」として軽視したのだと思ったから。

冷静にできる人はそうすればいい。だけどそうではない、振り回されずにはいられない人たちのことを、「これは、無関心というのではなく、きわめて幸いなことに、このブログのお客様の大多数が「冷静」である証拠だ。」なんて揶揄して切り捨てないでほしい。それは、そんなふうに茶化した露悪的な表現で使ってもいいものではない、と思う。

 「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。「自分はそんな悲劇をとことん否定するまっとうな人間です」と言い放つ以外に、選択肢がなくなるのだ。

ぼうぜんとしてしまう。人間の、共感とか良心とかいうものを、どうしてこんなふうに書いてしまうんだろう。この文章の前の部分はあまりにつらくて引用できません。たとえ警鐘をならすために、とことん「あえてブラックに書いてみた」のだとしても、そんな醜悪な言葉を「たいていの人間」の「本音」として書いてもよいと、身分をさらしているブログで堂々と書いてもよいと思えた理由が私にはわからない。

なにかの目的のために、現実に起こったものごとを俯瞰して分析して、「冷静な」手ざわりで書く、それが必要な場合だってたくさんあるだろうし、それができる人というのはきっと貴重なんでしょう。冲方さんはそれができる人だ。けれど、それをしていい場合といけない場合の判断は、常に必要不可欠ではないですか。この件については、私はそれをしてもよかったとはとても思えません。

まして、作家という社会的な立場のある人に、そんなことをしてほしくなかった。

 

 

めちゃくちゃ個人的な話をします。(これまでも十分個人的な話だけど)

この文章を書くまでにすこし空いたのは、自分の考えがなかなかまとまらなくて文章にできなかった、またいろいろなことでダメージを受けていてなかなかそこにエネルギーが回せなかった、というのもありますが、たぶん、なにより怖かったからです。

今も怖い。これ書こうと思ったときから、書いてる今も動悸がすごいし、ツイッターとかに書きました~ってつぶやくときもめちゃくちゃ怖いと思うよ。書き終えてからちゃんと書きましたって共有できるかどうかあやしい。怖いもん。

人権とか差別とか性暴力とか言ってるとめんどくさ~って思われるじゃん。そうやって避けられるだけで充分さびしいのに、中にはレッテルを貼ってこいつは攻撃していいって悪意をぶつけてくる人もいるじゃん。そんなの好きでやってる人あんまいないと思う。(いらっしゃるかもしれないけど)。私は好きで怒ってるわけじゃない。好きな人と楽しい話ばっかりしてたい。

でも、もしかしたらなんにも言わない人の中にもしんどい思いをしている人がいるかもしれない。それこそ、性暴力被害を矮小化しがちな社会の中で、いまの韓国とか在日コリアンの人たちに対する悪意みたいなものがある社会の中で、あの文章でもっと傷ついた人がいるかもしれない。

そして他にも批判や悲しさや怒りやつらさを表明してくれた人たちがいて、その人たちだって同じような怖さや不安に耐えて、それでも、自分の傷つきや怒りや悲しさや、あるいはそれを表に出せない人たちのために意見をはっきりと言ってくれているのかもしれない。そう思ったらさあ…なんか、私はまだ大丈夫だし、自分にできることをしたいと思うんですよね。

「そう思っているのはあなただけじゃない」って、意見をひとつでも増やすのが私にできることなのかなあと思ったのでこれを書きました。

 

あのさ~あの文章を知った人たちに「ファフナー無理だな」とかツイッターで言われているのを目にしてしまうとすごく苦しいんだよ。だって、15年前から、今も、きっとこれからも、ファフナーのこと大好きだから。いや私もファンじゃなかったら「無理だな」と思ってたにちがいないけど。

大好きな作品を大好きだって今もたしかに思ってる気持ちと、それを作り出してくれた人への落胆の気持ちでぐちゃぐちゃなんですよ。

これからもファフナーのことを大好きだと思う。ファンでいると思う。カフェも楽しみだしビヨンドの続きも期待して待ってるし円盤も買う。たくさん一喜一憂する。

だけどこのしんどい思いのこともきっと忘れられない。

こんなぐちゃぐちゃの気持ちをどう扱えばいいのか、まだ自分でも途方に暮れている。

 

 

(話がまったく逸れますが最後に興味深く読んだ記事を共有させてください:「慰安婦」はいかに共通の記憶になったか、各国学生は何を知っているか | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト